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「岸和田O'HANA フェスティバルとバリアフリー」 |
Vol.12 |
| 歯 黒 猛 夫 |
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5月6日、12、13日に渡ってカンカン・ベイサイドモール周辺で行われたイベント。主催はNPOの「すべての人の心に花を」で、会長はあの小篠綾子。6日は前回記した「車椅子テニスバトル」で12、13は写真展とバザーとコンサートと「エコダイビング・海中海上大清掃」(ダイバーが海に潜ってゴミを拾う)。仕事の関係もあって、一応全部見てきたけれど、「ちょっと、これはなぁ」というのが正直な感想。
「環境問題」、「障害者問題」。この二つを解決することはすごく大切というのは分かる。偉そうなことを言うわけじゃないけど、車の窓から吸殻を捨てるヤツとか車椅子で困ってる人(駅のホームとかで)を知らん振りするヤツにはすごく腹が立つ。そのための啓発なら、こんな催しはどんどんやってもらいたい。
けれど、問題点が全く無いわけじゃない。
テニスは面白かった。写真展?見に来てる人はほんの少し。バザーは盛況だった。海中海上大清掃?ボートとカヌーが浮かんでてダイバーが潜ってるだけ。見ていて面白いもんじゃない。そして、コンサート。去年のゲストは桑名正博で今年は喜納昌吉。そんな人と同じステージで障害を持つ人たちの演奏も披露される。
これって、逆に残酷じゃない?
手作りは分かる。プロを呼んで盛り上げたいのも分かる。しかし、そのテクニックやライブパフォーマンスなんて、当然のことながら雲泥の差だ。それを、障害があるからちょっと目をつぶって、というのはどうかな。
これは自分が抱く醜い偏見の表れかもしれない。けれど、非難覚悟で辛辣に言えば「ほら、こんな障害がある人でも一生懸命がんばってるんだから、ちょっと拙いところもあるけど、我慢して聞いてね」という風にも受け取れる。
実際、並べられた椅子は空きが目立ち、聞いているのも関係者ぽい人たちばかり。知り合いの後援団体関係者に会ったから話を聞くと「一応顔出しとかんとな」と、お義理で炎天下の中座ってた。
以前、障害を持つ人が演ずる芝居を見たことがある。演出家がよほど優れた感性を持っていたためか、素晴らしい出来映えだった。逆にいえば、障害を持つ人でないと表現できない内容だったと言い換えてもいい。これは多分、演出家の頭の中に障害は個性だという認識が強かったためだと思う。そういった点で言えば、日本語でロックを唄うのもハンディだ。英語の演歌が成り立たないのと一緒。それを克服したのがサザンの桑田であり、ミスチルの桜井であり、最近のJ−POPなのかもしれない。
つまり、リズムがどうしても巧く合わないのなら、合わないなりの新しい音楽を生み出せばいい。音がどうしても外れるのなら、外れて当然の楽曲を作ればいい。言葉が不自由なら無理に明朗を必要とする歌を唄う必要はない。何でもかんでも、みんなと同じようなことをして満足を煽るというやり方では、無関心を決め込み偏見を抱き続ける自分のような人間の興味を引き寄せることは出来ない。
実生活で不便を強いられているから、表現するものに対しては我慢して、では演奏する意味がない。生活を送ることと、音楽や演技を表現することは全く別の次元であるはずだ。
それは、すごく困難で、時間的にも予算的にも不可能に近いことかもしれない。部外者がエラそうな事を言うな!と叱責を受けるかもしれない。一生懸命取り組んで、この日を迎えた人に対して、すごく失礼で軽率な言葉かもしれない。
けれど、面白いと思えるイベントでないと人は寄ってこない。人の集まらないイベントはやる意味がない。啓発活動ならなおさらのこと、多くの人の意識に訴えかけるわけだから、多くの人に耳を傾けさせ、目を向けさせる努力をしなくてはならない。
だから、バザーが盛況な意味は理解できる。そこには興味の持てる商品が並んでいたし、値段も安い。買物客の中には問題解決の一端を担う形で購入した人もいるだろうが、殆どは欲しいものが安く買えるからお金を出したのだと思う。そこにあるのは適正な商取引だけであって、障害もハンディも関係ない。
同じ日に行われただんじりの入魂式と同じ位の人間が、問題に興味を持つ以前にイベントに興味を持ち、それから意識を変えていく。一部の人間だけじゃない、多くの人でもない、すべての人が考え、取り組まなくてはいけない問題。本当のバリアフリーは建物の階段や段差をなくすことではない。人の心の隔たりをなくすことだ。 |
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