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  「シティホール岸和田と緩やかな時間」 Vol.7
歯 黒  猛 夫 
 

 今年に入って葬式が連続している。
 二月の友人本人からスタートして、 友人の父親、友人の祖母、近所のおばあちゃん等など。身内にないのが不幸中の幸いと言うところだ。
 そんな中のひとつに「シティホール岸和田」で行われた葬式があった。あの、グランドホールの前に建っている葬儀場だ。物心ついたころから様々な葬儀に立ち会ったが、その殆どが町にある会館で行われたもので、それ専門の会場で行われたものに列席するのは初めて。案内も丁寧だし、焼香もスムーズに行われ、もちろん冷暖房完備。不幸の場においてこういう言い方が相応しいのかどうか疑問だけれど、快適に式は進行していった。けれど、あまりにも順調に事が進みすぎるというのも疑問だ。寒い日には震えながら、暑い日には汗を拭きながら、遅々として進まない行列に並ぶ。案内も、賄いも近所の誰かがあたふたしながらこなしていく。そんな、人間臭くて泥臭い雰囲気の中で故人を偲ぶ。自分が喪主なり関係者になっての進行を考えると、そんな悠長なことは言ってられないんだろうけれど、セレモニー然としている専門式場での葬儀は、何かがちょっと違うような気がした。

 さて、人は死ぬとどうなるのだろうか。考えてみた。
 死者は死して何も残さないわけではない。科学的に言えば、人間一人が荼毘に付されると三五〇兆の一兆倍の二酸化炭素分子となる。確かに膨大な数字だがゼロではない。そして、それは頭の先から足の先まで全ての炭素分子の数なので、意識の中枢である脳神経から発せられた分子数はもう少し少ないということになる。つまり、意識の残った分子と残らない分子が存在するという考えもできるわけだ。それらが、何らかの形、例えば怨恨とか未練とか存在意識でどこかに集中して残ってしまったとしよう。それが、超常的な力で何らかの影響を誰かに与えるとなれば、霊的な現象の説明はつく。知識や意識が強い人であるならば、そんな形をとってこの世に何らかの力を及ぼすことも可能では?

 続いて、死者に対する生存者の心構え的な物も考えてみた。
 死者は不幸ではない。逝ってしまった人を悲しいと思うのは自分自身だ。死んだ人には悲しみも苦しみも残らない。そして、若く逝った人はいつまでも若く存在することができる。考え様によっては羨ましい。けれど、残された人は去った人のすばらしい部分だけを想い出として持ち続けることができる。いやな部分は削ぎ落とされ、その人の素敵なところだけがクローズアップされる。セピア色に染まった写真のように。つまり、死者も残された人も不幸ではないわけだ。互いに永遠を手に入れるわけだから。残された人にはそんな想い出を胸に秘め、誰かに伝える義務がある。そして、自分の中で永遠に変ることのない人を抱き続けることができる。これは権利だ。その人との時間が物語であるならば、移ろう季節に応じた感慨を抱くことができる。何も、悩むことも悔やむこともない。

 緩やかに流れる葬儀ならこんなことも考えることができる。確かに、自分の大切な人が亡くなったのであれば、そんな冷静な思考は働かないであろうが、なんでもかんでもスムーズ、スピーディーという物事のあり方は、ちょっとなぁ…。

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