与謝野晶子
● 経歴
大阪府堺市の生まれ。堺の老舗(しにせ)和菓子(羊羹)屋「駿河屋」の父・鳳宗七、母・津祢の3女。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また、当時は兄の影響で尾崎紅葉、幸田露伴や樋口一葉の小説も読むようになった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、1900年に歌人・与謝野鉄幹(戸籍名は寛)が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに与謝野鉄幹と結婚。
1904年9月、『君死にたまうことなかれ』を『明星』に発表。1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加した。
子だくさんだったが、夫の収入はまったくあてにならず孤軍奮闘した。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。墓は多磨霊園にある(外部へのリンク参照)。
● 業績
・ 作家・歌人
情熱的な作品が多い歌集『みだれ髪』(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
処女歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに謳い、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇からは反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的な支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
1904年9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまうことなかれ』を『明星』に発表。とくにその三連目で「すめらみことは戦いに/おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、文芸批評家大町桂月は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、これに対して晶子は『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表「歌はまことの心を歌うもの」とにべもなく一蹴し、動じることはなかった。
1911年には史上初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、後世に名を残した。
満州事変以降の満州国成立には手放しで賞賛する向きもあり、単純な反戦家ではないことも伺える。
・ フェミニスト
反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてうを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。
羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力
文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。のち文化学院女学部長。
・ 作品
君死にたまふことなかれ
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
雑誌『明星』1904年9月号『旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて』。『恋衣』(晶子第四歌集)より冒頭を抜粋。 |