阪田三吉 明治3年(1870)6月3日〜昭和21年(1946)7月23日
内藤九段は孫弟子。妻:コユウ
和泉国大鳥郡舳松村(へのまつむら、現在の堺市協和町)生まれ。
生業の草履表づくりを手伝いながら、狭い路地裏で大人が指す将棋を見て覚え、またたく間に頭角をあらわした。阪田の深い読みと鋭い攻めは、乱戦につよい独特の阪田将棋を生み出し、大阪朝日新聞社専属棋士となる。
しかし、無学と奇行のため将棋界に入れられず、自ら名人を名乗って中央と絶縁。
関根が名人に任命されたが阪田の後援会の大阪政財界がバックアップし、阪田も大正5年(1916)に関西名人位を名乗ることととなった。しかし、これがきっかけで棋界追放となった。12年間将棋界を離れた後和解。
その復帰を記念する特別対局で、当時東京棋界の第一人者、まさに昇竜の勢いにあった木村八段を相手にしたのが南禅寺の決戦である。
1937年(昭和12年)2月、京都・南禅寺で読売新聞社の主催で木村義雄八段と阪田三吉の特別対局が行われた。木村八段の初手7六歩に対し、阪田が二手目、「9四歩」と指したことで有名。
阪田の孫弟子でもある内藤國雄九段は、この対決を自著『阪田三吉名局集』(講談社)の中で、「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。
世紀の一大対局は、阪田が95手で敗退。あえて2手出遅れの初手を指した68歳の老棋士阪田は当時の人気棋士となる。しかし、すでに年齢的に盛りをすぎ、これ以降プロ将棋から身を引くことになる。この様に晩年は不遇であった。その劇的な生涯は、しばしば「王将」で映画演劇化される。
関根金次郎七段の好敵手と言われ、数々の名勝負と天衣無縫の人柄で、その名を天下にとどろかせた。「わしの銀が泣いている」「天から降った角」などの名文句も人気の一因であろう。
昭和30年(死後)、日本将棋連盟から、贈名人、王将位が贈られている。 |