久米田池の北西に接する小丘陵にあり、山門の前に池が広がる。
金堂に本尊釈迦如来を安置。
境内は府指定史跡。
奈良時代に行基が建立した49院の一つで、行基が開設した久米田池を維持管理するために、天平10年に建てられた隆池院に始まる。
開山以降平安にかけての寺史はつまびらかでない。
建治3年(1277)幕府の命で在京中の北条氏得宗被官の安東蓮聖が熊野詣の折に託宣を受けて久米田寺に参詣しその再興を志したが、当寺が南都東大寺の兼帯するところだったので、執権北条時頼の助力を請うて東大寺僧を兼ねた別当実玄に働きかけ、譲与を受けるに至ったという。
当時久米田寺は寺運衰退して堂塔破壊し、わずかに金堂・多宝塔・寺院2,3宇を存し、他は疎石ばかりという有様だったが、蓮聖は南都西大寺の叡尊の高弟行円房顕尊を講じて開山とし、久米田寺を華厳・戒律・真言の兼学道場として再興した。
南北朝内乱の中で久米田寺は和泉の一拠点として南北両軍のはざまに立ち、宮方、武家方からこもごも寺院と寺領の安堵を受けるなど、その複雑な動きを物語る各種の文書を残している。
内乱の初期には後醍醐天皇綸旨や南軍の禁制が当寺に下されたが、一方同じ頃足利直義が久米田寺に利生塔を建てる旨の御教書を発し、北朝の勅願として久米田寺塔婆の修造を命じた光明院の院宣が下り、直義が同塔に仏舎利2粒を安置するなど、北朝との関係が強まり、また当寺の檀那安藤高泰も尊氏方に付いて登場し、所領包近(かねちか)名上方を寺領に加えている。
永禄5年(1563)三好実休と畠山高政の久米田合戦があったとき堂塔が兵火にかかり、宝物・古文書は槙尾寺(現和泉市)に移して難は免れたが、戦国騒乱の渦中で寺は衰微し、江戸時代に入ってようやく復興に着手、延宝2年(1674)に至って一応再興を成し遂げた。
その後宝暦-明和(1751-72)の修理再建を経て今日に至っている。
現在塔頭として多聞院・五大院・花厳院・阿弥陀院・明王院の五院がある。
星曼荼羅図等多くの国指定重要文化財を蔵する。
(日本歴史地名大系 大阪府の地名 より)
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