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仁徳天皇陵 池上曽根遺跡 岸和田城
岸和田城
別名:    千亀利城・猪伏山
所在地:   大阪府岸和田市岸城町
築城年代:  天正13年(1585)
築城者:   小出秀政
主要城主:  小出氏、岡部氏
種類/形式: 近世大名の居城
遺構/現状: 石塁、堀、模擬天守
住所:    大阪府岸和田市岸城町9-1
アクセス:  南海本線 岸和田駅より徒歩15分

沿革

 建武親政期、和泉守護となった楠木正成が和泉国府の南の守りとして築城。一族の和田新兵衛高家を城主とした。

築城当初は岸の城と呼ばれたらしいが、城主和田氏を「岸の和田氏」と言ったところから地名岸和田が定着し、岸和田城と呼ばれるに至った。

 その後和泉守護は山名氏、大内氏、仁木氏、細川氏と代わり、城主も目まぐるしく交代した。

1408年に細川頼長が和泉守護となってからおおよそ細川氏が和泉半国守護として岸和田を本拠とし、岸和田細川氏と呼ばれた。

ただし城主の名前には和田氏の一族が見え、おそらくは和泉守護代として土着していたものと思われる。

明応年間(1500年頃)には松浦肥前守が守護代として在城し、このころに位置の明らかではない古城から今の位置に移ったとされている。

 戦国時代に入ると岸和田城は阿波から近畿に進出した三好氏の重要な拠点となり、戦国大名三好長慶はその弟の義賢、十河一存、安宅冬康らを城主として岸和田に置いた。

 織田信長が上洛すると松浦氏をはじめとする和泉の国人たちは信長に従ったが、石山本願寺攻めの際に本願寺方に味方したらしく、信長に責められて釈明の使者を送ったという記録が残っている。

それ以後は信長に従ったが、兵糧を本願寺に入れようとした毛利氏の水軍と木津川口で戦い、多くの国人が戦死した。

 その後豊臣秀吉は岸和田に、紀州の雑賀、根来、粉河の一揆衆への抑えとして中村一氏を、その攻略後は小出秀政を置いた。

大坂冬の陣後は一時松平氏が入ったこともあったが、最終的には1640年、岡部氏が岸和田藩主となるにいたる。

この岸和田藩は5万3千石の譜代大名(ただし徳川家康の駿河攻略(1582年頃)時に従った比較的新しい譜代である)で、紀州藩への備えとしておかれたと言われている。

 天守閣は1827年の冬に落雷によって焼失したが、昭和5年(1930)、岡部氏が城地を岸和田市へ寄贈。昭和29年(1954)に、ふる里への思いを寄せる市民の強い要望から、再建された。外観は、慶長年間の趣きを伝え、三層五重の輪奥の美を誇っている。

江戸時代の岸和田城

現在の天守閣は3層だが、本来は5層の天守閣であった。幕府に提出した城郭普請絵図に描かれている天守閣が、すべて5層であることからも明らかである。

正保2年(1645年)に作られた岸和田城絵図には、熊本城や松本城のように、天守閣の壁に立派な腰板が張られている姿が描かれている。天守閣の大きさは、南北約18.3メートル、面積102坪で、岡山城が112坪あるのと比較すると、30万石級の大名の居城だった事がうかがえる。

年表
1334年(建武頃) 楠木正成の一族である和田高家、現在の城東方(野田町)の地に城を築く
1378年(永和4年)信濃泰義を岸和田城におき、城地が現在のところへ移る。
1583年(天正11年)秀吉、中村一氏を根来勢への備えとして岸和田城へ入れる。
1584年(天正12年)根来・雑賀衆、岸和田城を攻撃。
1585年(天正13年)秀吉、紀州攻めのため岸和田城へ入城。
1595年(文禄4年)築城開始
1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦(小出吉政は西軍で、小出秀家は東軍で戦う)
1614年(慶長19年)大坂冬の陣
1615年(元和元年)大坂夏の陣
1619年(元和5年)小出吉英、但馬国出石城に移転となり、丹波国篠山城の松平康重が城主となる
1703年(元禄16年)だんじりの始まり
1827年(文政10年)岸和田城天守閣、雷火で焼失
1954年(昭和29年)天守閣再建

 
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