大阪府和泉市池上町を中心に南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる池上曽根遺跡は、総面積60万m2もの規模をもつ大遺跡です。
弥生時代の全期間(2300〜1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)と言われています。
1976年に環濠に囲まれた範囲を中心に、約115,000m2が国史跡に指定されました。
池上曽根遺跡がもっとも栄えた弥生時代中期(2200〜2000年前)の姿を現代によみがえらせるために、1995年から史跡整備を行なっています。
1995年、集落の中心部で見つかった弥生時代中期の大型建物と井戸は、弥生時代のイメージを塗りかえるたいへんな発見となりました。
大型建物は東西19.2m、南北6.9m、面積133m2と、弥生時代最大級の規模をもつ建物で、地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物と呼ばれるものです。26本の柱で構成されていました。
直径60cmもある当時の柱の根元が腐らずに、17本も残されていました。
建物の南側にある井戸は、直径2.3mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にしており、刳りぬき井戸としてはわが国最大のものです。
発掘されたときもこんこんと水が湧き、二千年間、井戸が生き続けていたことがわかりました。
建物や井戸の周りには、たくさんの石器や土器を埋めた「祭りの場」がつくられ、その隣では青銅器や鉄器を作っていた当時の工房の跡も見つかりました。
環濠の周辺には人々の住まいが密集しており、用途によって区切られた集落の姿が明らかになりました。
池上曽根遺跡の調査のもう一つの大きな成果は、大型建物に残されていたヒノキの柱が紀元前52年に伐切されたものであることがわかり、弥生時代中期の実際の年代が初めて明らかにされたことです。
それまで考えられていた年代より百年も古くなり、その後の邪馬台国に続く歴史の流れに、大きな一石を投じました。
大型建物は壁のない高床建物で、屋根裏が二階になった屋根倉形式といわれる形で復元されました。近くで見つかった土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに、全体の形が決められました。約80畳の広さがあり、高さは11mもあります。階上は神の宿る聖なる部屋、階下は人がたくさん集まるスペースとなっています。
屋根の上には神の使いの鳥をおき、屋根の形は魂を運んだと言われる聖なる船の姿をイメージしています。
建物の両側には池上曽根遺跡の成り立ちや日々の暮らしの物語りを、色鮮やかな木彫りのレリーフで表しています。 弥生時代の絵画の表現をかりた、現代人から弥生人へのメッセージです。
建物の復元には、和泉市父鬼町の三国山で伐切された50本のヒノキを使っています。
また、井筒に用いたクスノキの大木は、東大阪市から寄贈していただきました。復元完成にあたり、全国から愛称を募集したところ、5,000通をこえる応募があり、建物は「いずみの高殿」、井戸は「やよいの大井戸」と決まりました。
「いずみの高殿」データ
●南北19.2m・東西6.9m(柱の中心で測った数値)・高さ11m・床までの高さ4m
●床の面積135m2(80畳)・屋根の面積400m2・屋根は葦葺き・柱、桁、梁などの主要部材に和泉産ヒノキを使用
「やよいの大井戸」データ
●径2.3m・内径1.9m・厚さ20cm・復元の深さ1.2m・井戸屋形の高さ5m・柱はクリ・屋根は葦葺き |