由緒書より
日根神社は大井関大明神と称して、延喜式や国内神名帳にも名がでている古い神社です。神社の創建にはいくつかの伝承があります。
(一)神日本磐余彦(神武天皇)が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまりとします。
(二)神功皇后が朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力し共に帰ってきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと。現在は日根神社摂社)で、この神社が日根神社のはじまりといわれます。
(三)樫井川流域を開発した日根造は、新羅からの渡米人の子孫で「神祇志料」にはこの日根造が日根神社の主神として先祖の億斯富使主を祭ったとされています。慶長七年の日根神社縁起由来には「当社大明神ハ古三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子ニテ」とあり、この説をとっています。
(四)天武天皇の時代に大鳥神社より分霊を勧請し神殿を造ったのがはじまりといわれます。伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上 之郷と日根野の一部を開発した人たちが溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり大規模に樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が樫井川の水を押さえる重要な場所に大井関大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのでしょう。
そして大鳥神社などと共に和泉国を代表する神社になっていきます。
(一)奈良時代七一六年(霊亀二年)、河内国より和泉国が分かれた時、大鳥、穴師、聖、積川、日根神社を和泉五社とし、井上大明神を五社合祭の総社とし、七二〇年(養老四年)に五社の神輿を総社に集め盛大な祭りをおこないました。七三二年(天平四年)に大旱魃がおこり和泉五社に降雨祈願が命じられ、その効果があって、神領六八〇〇石が与えられ、その内五〇〇石が日根神社に分けられたとされています。
九〇五年(延喜五年)に延喜式が施行され、その神名帳に記載された神社を式内社といいますが、泉佐野では比売、日根神社とともに加支多、火走、意賀美神社が式内社となります。
(二)鎌倉時代に日根野は九条家の荘園となり、溜め池や水路がつくられ開発が進み、日根神社は大井関大明神の名で呼ばれるようになります。一三一六年の日根野村絵図には溜め池、耕地、集落のほかに大井関大明神、溝口大明神、丹生大明神、蟻通大明(三)南北朝の動乱の時代になると、この地方の武士である日根氏も守護方に加わり戦いに参加し、すぐ近くの土丸城は南朝、北朝の争奪の城となり、何回も合戦がおこなわれます。
一三五三年(正平八年)には兵火により社殿がことごとく焼かれました。しかし二年後に再興されます。
(四)戦国時代の一五〇〇年ごろ、大井関大明神で盛大な祭礼がおこなわれていることが、日根荘の領主九条政基の日記「旅引付」に書かれています。
戦国時代末になり、日根神社は朱印地(五〇〇石)を受けますが、織田信長、豊臣秀吉は統一のために根来寺や一向宗徒を攻撃します。
日根氏は秀吉に従います、そのため一五七六年(天正四年)に兵火により炎上します。
一五八五年(天正十三年)には秀吉により神領地が没収されました。
この年より和泉五社の神輿会合は中止されます。
しかし、その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社では岡本村の船岡山への神輿渡御が始まったとされています。
(五)一六〇〇年(慶長五年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興します。これが現在の本殿です。
一六八七年(貞享四年)岸和田藩主岡部美濃守は水田一町余を寄進します。
春の祭礼で幟の行列が船岡山まで華やかに渡御します。
(六)現在は日根野、上之郷、長滝地区の総社となっています。
これらの地区の人たちは、それぞれの地区の神社(野々宮、意賀美、蟻通神社など)の氏子でありながら、日根神社の氏子であるという二重氏子となっています。
 
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